私は2005年3月から、マガジン9を中心に憲法や社会問題に関わってきました。40歳までは「ノンポリ」だった私ですが、憲法の先進性や重要さに目覚めてからは、憲法が改悪されてしまっては大変だと、私のように目覚める人たちを増やすのは、「知ってしまった私」の責任ではないか、と思い広める活動をやってきました。
しかし残念ながら、マガジン9をスタートした14年前よりも、日本国憲法の理念であるところの「平和・自由・個人の尊厳」が、ないがしろにされているように感じてなりません。憲法改正を強く主張する政治家が長く首相の座につき、与党は絶対的な多数を握っています。いつでも国会において発議ができる状況にある今、草の根から、リアルな関係で憲法の理念が大事だと考える人たちとつながり、顔が見える関係を作っておかないと、インターネットだけの関係はあまりにも脆いのではないか、と思うようになったのです。
マクロの目でみると、どう考えても今の日本社会はおかしなことになっています。与党が圧倒的な多数のため、国会で十分な議論がつくされないまま、次々と成立する重要な法案。奨学金という莫大な借金を背負わされる若者、原発事故のため今もなお、ふるさとに帰ることのできない、3万以上もの人たちがいる。沖縄・辺野古に基地をいらないという人たちが、非国民と呼ばれる。生活保護は、憲法25条で保障された全ての人が持つ権利なのに、打ち切られ自殺に追いやられる人がいる。経済政策の失敗で、長く続くデフレのせいで、賃金は上がらずに、世帯年収はこの20年で120万円も下がっている。格差は広がり続け、子どもの貧困は7人に一人と言われながらも、孤立して見えにくく、働けない引きこもり状態にいる人は、50から70万人以上いる…などという状況があります。
その一方で、自分の足元や地域に目を移すと、地域で支え合う人たちの姿があります。困った時に「助けて!」といえる関係をつくり、血縁関係がなくても、親身になって支え合う人たちがいます。私も実際には、いつもご近所仲間には助けられています。全国にあっというまに広がっていった「こども食堂」もその典型かもしれません。いったいどちらが、本当の日本の姿なのでしょうか?
どちらも本当です。希望は「私たち普通の市民の中にある、地域にこそある」ということに、私は気がつきました。
「民主主義は、観客席からながめているだけではダメ、フィールドに出てプレイヤーになりましょう。男性中心で権威主義的ないわゆる“おっさん政治”を終わらせるためには、決定権のある場所に、女性が一人でも多く入らないとダメですよ。そのチャンスが来た時には、断ってはいけません…」などなど。これらは、私が様々な取材の中で、尊敬する活動家や作家やジェンダー研究者たちにインタビューをし、それに共鳴をして、コンテンツで発信してきた言葉です。
これまで編集者という裏方仕事をしてきた私にとって、人前で話をする仕事は、向いていないと思っていました。正直、恥ずかしさもあります。しかし、それで立候補の打診を断ってしまうことは、私がこれまで人に伝えてきたことと相反する、それでは筋が通らない。私の14年間を自らが否定することになるのではないか、そう思い至るようになりました。
実は、私自身の計画として2019年は、私が14年間マガジン9でやってきたこと、大事だと思ってきたことを、地域で実践してみたい、という考えも持っていました。これまでは理念として大切に考えていた、「一人ひとりの個人の尊重し、多様な価値観を認め支えあう共生社会、インクルーシブで、平和、自由な社会をつくる」とは、実際にはどういうことなのか。これを、区民として、地域の自治にコミットし、市民の立場としてのネットワークづくりや居場所づくりをしたいと考えていました。ソーシャルビジネス、スモールビジネスをスタートアップしたいとも密かに考えていました。
しかし立場は違えども、市民の側に立ち、行政と議会をつなぐ役割を担う、というのも地域での「実践の場」に違いありません。そう思い、立候補を決意したという経緯があります。
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地域でつながって、ボトムアップで草の根で、平和で自由な社会に変えていきたい。誰かの言いなりになる社会、窮屈で不自由で不寛容な社会と決別するために、私たちの手に政治をとりもどしつくっていきたい。その思いで現在、活動をしています。